本能寺の変② 信長はいつ死んだのか

前回、複数の独立した史料が
「喧嘩のような騒ぎがしばらく続いた後に火の手が上がった」
と記録していることを見てきました。

そして二つの疑問を提示しました。

👉 光秀は何しに来たのか
👉 火の手が上がるまで、何をしていたのか

今回は、この疑問に向き合います。

■ 信長の前日の行動が不明

まず押さえておくべき重要な事実があります。

6月1日、すなわち本能寺の変の**前日**における
信長の行動がはっきりしていません。

夕刻以降の信長の動静を示す記録がない。

これは単なる記録の欠落ではないかもしれません。

👉 **信長がいつ死んだのか、実は明確ではない**

のです。

■ 「6月2日未明に討たれた」は本当か

通説では、信長は6月2日の未明に討たれたとされています。

しかしこれは、本当に確認された事実でしょうか。

信長の死の瞬間を直接目撃した記録は存在しません。

前日の夕刻以降、信長の行動が不明であるとすれば、
👉 **6月1日の夜のうちに、すでに信長は死んでいた可能性がある**

この可能性を排除する根拠は、どこにもありません。

■ 光秀は「急襲」ではなく「確認」に来た

もし信長が前日の夜にすでに死んでいたとすれば、
①で提示した疑問への答えが見えてきます。

光秀は急襲しに来たのではなく、
👉 **信長の死を確認しに来た**

のではないでしょうか。

これなら「喧嘩のような騒ぎ」という表現も自然に説明できます。

大軍による一斉攻撃ではなく、
光秀の兵と信長の側近との間で
小競り合いのような状況が続いた。

光秀が現場に入り、状況を確認するまでの時間、
それが「しばらく続いた騒ぎ」だったのではないでしょうか。

■ 火災は「始まり」ではなく「後始末」だった

そして光秀が現場を確認し、
信長の死を確かめた後に、
火が放たれた。

👉 **火災は事件の始まりではなく、後始末だった**

この順序で見れば、
「喧嘩のような騒ぎの後に火の手が上がった」
という複数の史料の記述と、
完全に一致します。

■ 信長の首が見つからなかった理由

本能寺の変で、信長の首は最後まで発見されませんでした。

急襲によって討ち取ったのであれば、
首を取るのが当然の手順です。

しかし首は見つからなかった。

👉 **光秀が信長の遺体を丁重に処理したのではないか**

確認に来た光秀が、
すでに死んでいた信長を弔い、
遺体を処理した。

その後に火を放ち、証拠を消した。

信長の首が見つからないのは、
「急襲して討ち取った」という通説では
説明がつきません。

しかし「確認と後始末」という視点から見れば、
ごく自然に理解できます。

■ 室町将軍も暗殺されていた時代

ここで一つ確認しておきたいことがあります。

「天下を目前にした信長が暗殺されるはずがない」
と思われるかもしれません。

しかし歴史を振り返れば、
日本の最高権力者でさえ暗殺されています。

室町幕府第5代将軍・足利義教は、
政権が最も安定していた時期に
宴席の場で部下に暗殺されました。

第13代将軍・足利義輝もまた、
二条御所を急襲されて命を落としています。

権力が強大であっても、
警備が手薄な状況では命を落とす。

6月1日の夜、本能寺の信長の周囲は少人数でした。
👉 **最も警備が手薄な状態だったのです**

■ 次回に向けて

では、光秀はなぜ「犯人役」を引き受けたのか。

そして信長を実際に暗殺したのは誰なのか。

そこに至る前に、一つ考察したい事があります。

次回は、なぜ秀吉は本能寺の変をいち早く知る事ができたのか?

この謎に迫りたいと思います。

どうぞお楽しみに。

タイトルとURLをコピーしました