前回、長篠の戦いは影街道をかけた攻防だったという考察をしました。
そして信長は影街道の情報網を逆手に取り、 武田勝頼を罠にはめた。
今回は、信長が影街道を 組織的に潰していった過程を追います。
■ 長篠の戦いと同時進行していた伊賀の動き
1575年、長篠の戦いが起きた年と同じ時期に、 伊勢の北畠具教は伊賀に丸山城を築こうとしていました。
天正伊賀の乱シリーズで考察したように、 この丸山城は武田と連動し、 織田に対抗するための拠点だったと考えられます。
しかし長篠の戦いで武田が敗れたことで、 北畠具教の丸山城構想は破棄させられます。
■ 信長は「裏切り」を確信した
この時点で信長は、 北畠家が裏で動いていたと確信したのではないでしょうか。
そして1576年から1577年にかけて、 北畠家は織田方によって粛清されます。
これは単なる伊勢平定ではありません。
👉 伊勢に存在していた影街道そのものを潰す行為
だったのです。
■ 岡崎の影街道も断たれる
さらに信長は、 1579年、第一次天正伊賀の乱で名張を潰そうとします。
この試みは失敗に終わりますが、 同じ年、岡崎にいた徳川信康が切腹させられています。
これは、岡崎を起点とする影街道を 断ち切るための決断だったと考えられます。
■ 紀伊の影街道も封じられる
1580年には、石山本願寺が攻略されます。
これにより、紀伊を拠点としていた雑賀衆、 すなわち紀伊の影街道は完全に機能を失います。
■ 伊賀もまた、織田の勢力下へ
翌1581年、 第二次天正伊賀の乱が起こり、 伊賀全体は織田の勢力下に置かれます。
天正伊賀の乱シリーズで考察したように、 これは伊賀の壊滅ではなく政治的な決着でした。
しかしこれにより、 影街道はほぼ完全に断ち切られた状態となりました。
■ 武田家の末路
こうして影街道は一つずつ潰されていきました。
👉 伊勢(北畠家粛清) 👉 岡崎(徳川信康切腹) 👉 紀伊(石山本願寺攻略)
👉 伊賀(第二次天正伊賀の乱)
情報と連携を失った武田家は、急速に力を失っていきます。
そして1582年、 織田・徳川連合軍による甲州征伐によって、 武田家は滅亡へと追い込まれます。

■ 次回に向けて
影街道の各拠点が潰され、 行き場を失った勢力が最後に集結した場所があります。
次回は、その「最後の拠点」について考えます。

