前回、天正伊賀の乱の通説を整理しました。
その通説の中心にある考え方が、
**「伊賀惣国一揆」**です。
今回は、この組織の実態に迫ります。
■ 通説の「伊賀惣国一揆」
教科書的な説明では、伊賀惣国一揆とは、
伊賀全体が団結した軍事同盟のような統一組織とされています。
この強固な団結が織田家にとって脅威となり、
信長は討伐を決めた――というのが、通説の流れです。
しかし研究者の中でも、
その実態は意外なほどはっきりしていないと言われています。
■ 伊賀は本当に「狭い」のか
ほぼすべての天正伊賀の乱の解説で、
伊賀は「狭い地域」として語られています。
しかし前回も触れたように、
当時の伊賀国は現在の**伊賀市と名張市を合わせた地域**です。
その面積は約700㎢。
👉 **東京23区(約630㎢)より広い**
これを「狭い」と表現するのは、
実際にこの地域を知らなければこそ、ではないでしょうか。
■ 鐘の音は届かない
伊賀惣国一揆の掟の中に、こんな内容があります。
「敵が侵入してきたら鐘で知らせるので集まれ」
しかし実際に伊賀の地形を知っていれば、
これがいかに非現実的かがわかります。
👉 柘植(北部)に侵入してきた敵に対して
👉 赤目(南部・名張)の忍者には鐘の音は絶対に聞こえない
地図で見ればわかりますが、この二つの地域の距離は相当なものです。
しかも山に囲まれた盆地地形の中で、鐘の音が届くはずがありません。
駆けつけることも、もちろんあり得ない。
伊賀全域が「一つの共同体」として機能していたという想定そのものが、
**実際の地形を知らない者の発想**ではないかと感じています。
■ 伊賀市と名張市は、雰囲気が違う
私は伊賀に住んでいますし、名張の人とも交流があります。
「伊賀」と「名張」は、微妙に違います。
これは体感としても実感しています。
私はかつて自転車で伊賀を駆け巡っていた時期がありました。
上野地区から柘植方面はなだらかで、それほど苦になりません。
ところが名張方面へ向かおうとすると、坂がきつすぎて断念しました。
現代の自転車でもそうなのですから、
車も舗装道路もない時代に、
北部と南部が密に連携できたとは、とても思えません。
■ 甲賀とは「仲悪い」のか
「伊賀と甲賀は仲が悪いんですか?」
とよく聞かれます。
しかし実際には、伊賀北部(阿山地域)と甲賀はどこが境かわからないほど地続きです。仲が悪いとはとても思えません。
実際、伊賀惣国一揆の掟には
「甲賀が困っていたら助けること」
という条項があります。
一方で、
「三好や大和の国人に対しては警戒せよ」
という条項もあります。
ここに、重要なヒントが隠れています。
北部伊賀は甲賀と協力関係にあり、
南部(名張)は三好氏と深い関係にあった。
👉 **伊賀の中に、異なる方向を向いた二つの勢力が存在していた**
可能性が見えてきます。
■ 伊賀惣国一揆は「北部限定」だった
以上の点を整理すると、
👉 面積約700㎢という広大な地域
👉 北部と南部の気質の違い
👉 甲賀との協力関係
👉 三好との距離感(北と南で異なる)
👉 本拠地が平楽寺(現在の上野城周辺・北部)
これらを踏まえると、
伊賀惣国一揆とは**伊賀北部地域限定の同盟関係**であったと考えるのが自然です。
実際、研究者の中にも同様の見方があるようです。
■ 次回に向けて
伊賀が一枚岩ではなかったとすれば、
次に重要になるのが**名張の勢力**です。
伊賀北部とは別の動きをしていた名張忍者とは、
いったいどのような勢力だったのか。
次回は、名張忍者の存在感と、
伊賀全土に点在する600以上の砦が示す意味について考えます。
どうぞお楽しみに。
