前回、名張が南朝・吉野・伊勢を結ぶ要衝だったことを見てきました。
そしてその伊勢を本拠にしていたのが、
南朝の名門・北畠家でした。
今回は、信長の伊勢侵攻と北畠家の滅亡、
そしてそれが天正伊賀の乱へどう繋がるかを考えます。
■ 信長、伊勢へ進出
織田信長は上洛する前段階として、
1568年頃から伊勢への侵攻を始めます。
伊勢を守っていたのは南朝の名門・北畠具教(とものり)。
具教は徹底抗戦を行い、
信長軍は伊勢を完全に攻め落とすことができませんでした。
その結果として、
👉 信長の次男・信雄を北畠家に養子入りさせる
という形で「政治的決着」がつきます。
名目上は伊勢全体が織田家の勢力下へ入りましたが、
北畠家そのものは存続していました。
■ 1575年――北畠具教、伊賀・丸山に城を築こうとする
1575年、北畠具教は伊賀の丸山に城を築こうとします。
しかしこれは信長に咎められ、築城は中止されました。
丸山は、伊賀と名張を一つの地域と考えた場合、
ちょうど真ん中あたりに位置します。
また、前回触れた喰代の百地砦からも近い立地です。
名張という地域が北畠家と深い繋がりを持っていたことを踏まえると、
この丸山城建設には名張忍者の全面協力があったと考えられます。
この「伊賀に城を作ろうとした」という行動は、
のちの天正伊賀の乱を考える上で、
極めて重要なポイントになります。

■ 1576〜77年――北畠家の”粛清”
その後1576〜77年にかけて、
織田家の内部工作・不意打ちにより、
生き残っていた北畠家一族が次々と殺害される事件が発生します。
これは「信雄の家中統制」とされていますが、
実質的には北畠家の完全な消滅を意味しました。
■ そしてその直後に「第一次天正伊賀の乱」が起こる
北畠家の悲劇的な最期の直後、
天正伊賀の乱(第一次)が勃発します。
👉 北畠家が伊賀に築こうとした丸山城
👉 北畠一族の粛清
👉 その直後に起きた伊賀での戦乱
これらが無関係であるはずがありません。
私はこれらを、
👉 一本の線でつながった”同じ物語”
だと考えています。
伊勢と伊賀は地理的に密接に結びついており、
信長の伊勢支配と伊賀への介入は、
セットで理解する必要があります。
■ 信長は何を恐れていたのか
ここで一つの問いが浮かびます。
信長はなぜ、北畠家をあれほど徹底的に粛清したのか。
なぜ、養子という形で取り込んだだけでは足りなかったのか。
北畠家が持っていたもの――
それは伊勢という土地だけではありません。
吉野・名張・伊賀と深く結びついた人と情報のネットワークです。
信長にとって、
このネットワークそのものが脅威だったのではないでしょうか。
その答えは、次回以降の考察の中で、
さらに鮮明になってきます。
■ 次回に向けて
次回は、第一次天正伊賀の乱の前哨戦となった
丸山城の攻防について考えます。
通説では「信雄が密かに城を築こうとして失敗した」とされていますが、
実際の伊賀の地形を知っていれば、
この説明には大きな無理があることがわかります。
どうぞお楽しみに。
