天正伊賀の乱④ 名張は”南朝”最大の要衝だった

前回、名張忍者が伊賀全体に対して
強い影響力を持っていたことを見てきました。
では、なぜ名張はそれほどの存在感を持っていたのか。
その答えを探るには、
名張という地域が持つ地政学的な意味を理解する必要があります。

■ 吉野へ行って気づいたこと

南北朝時代、皇室が南朝と北朝に分かれ、
南朝の中心地が吉野でした。
「南朝とはどんな場所だったのか」を知りたくて、
私は吉野へ旅行したことがあります。
伊賀から奈良県へ行くとき、大抵は
👉 名阪国道
👉 国道163号線
を西に向かいます。
ところが、ナビゲーションが示したルートは
まさかの「まず南へ」
名張を抜け、赤目→宇陀→吉野というルートでした。
走ってみて驚いたのは、
👉 名張を越えてしまえば、吉野は想像以上に近い
という事実です。

■ 北畠家が「伊勢」を本拠にした理由

南朝といえば、伊勢の北畠家が有名です。
「なぜ北畠家は伊勢に拠点を構えたのか?」
この疑問に対する既存の説明は、
私にはあまり納得のいくものではありませんでした。
しかし、忍者の通信網を前提に考えると、話が変わります。
名張から青山高原、榊原温泉を越えると伊勢平野に出ます。
それほど遠くありません。
つまり、
👉 吉野と伊勢は、名張を経由すれば極めてスムーズに連絡できる
だからこそ、北畠家が伊勢を本拠にするのは必然だったのです。
名張がある以上、これ以上の適地は他にない。
吉野旅行でそのことを、強く確信しました。

■ 名張は「南朝の重要拠点」だった

この地形を踏まえると、一つのことが見えてきます。
👉 名張は、吉野(南朝)と伊勢(北畠家)を結ぶ要衝だった
表の街道ではなく、山深く、しかし確実に機能する連絡ルートの中心。
名張忍者がこの地に根を張っていたのは、
偶然ではありません。

■ “後南朝”の残党と名張

南北朝は室町時代に統一されますが、
その後も後南朝と呼ばれる反政府運動が何度も起きています。
当時の政治状況を考えると、
南朝残党たちが山深く交通の要所でもある名張に
身を寄せていた可能性は十分にあります。
名張は、
👉 吉野に近い
👉 伊勢への連絡も容易
👉 忍者勢力が拠点を置いていた
という条件が揃った、理想的な隠れ拠点だったからです。

■ 伊賀惣国一揆の掟が示すもの

ここで、前回触れた伊賀惣国一揆の掟を改めて見てみます。
「三好や大和の国人に対しては警戒せよ」
この「三好」という存在が、ここで重要になります。
名張忍者と三好氏には深い関係があると私は考えています。
その理由については、また別の回で詳しく触れます。
ただ一点だけ言えるのは、
北部伊賀が甲賀と協力し、
南部(名張)が三好と繋がっていたとすれば、
👉 伊賀惣国一揆の掟は、北部伊賀が名張勢力を警戒した証拠
とも読めるということです。

■ 次回に向けて

名張が南朝・吉野・伊勢と深く結びついていた。
この背景を踏まえると、
次に見えてくるのが織田信長の伊勢侵攻です。
信長はなぜ伊勢へ向かったのか。
そして北畠家の運命は、天正伊賀の乱とどう繋がるのか。
次回は、信長の伊勢侵攻と北畠家の最期について考えます。
どうぞお楽しみに。

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