前回、第一次天正伊賀の乱は
「名張対織田」という構図だった可能性を見てきました。
今回は、この戦いについて
私が最も違和感を覚えている点を取り上げます。
それは、
👉 「織田信雄が信長に知らせず、勝手に伊賀を攻めた」
という通説についてです。
本当にそれは事実なのでしょうか。
■ 信雄の独断出兵は本当に可能だったのか
通説では、
信雄が怒りに任せて独断で出兵し、大敗したとされています。
しかし、私はこの説明には大きな無理があると考えています。
八千人規模の軍勢を動かすには、
👉 兵糧の調達
👉 装備の準備
👉 兵の動員
これらすべてが必要です。
それを信長の知らないところで行い、
しかも大敗したにもかかわらず、
叱責だけで済むというのは不自然です。
もし本当に独断で八千人を失っていたなら、
処罰されない方がおかしいのではないでしょうか。
■ 第一次伊賀攻めは北畠粛清の続きではないか
第一次天正伊賀の乱の直前、
織田家は伊勢の北畠家を事実上滅ぼしています。
この北畠家は、
伊勢だけでなく、大和・吉野・名張とも深い関係を持っていました。
私は、第一次天正伊賀の乱を、
👉 北畠家の残党処理、あるいは勢力整理の延長
として捉える方が自然だと考えています。
すんなり終わるはずだった小規模な作戦。
それが想定外の抵抗に遭った。
その相手こそが、名張忍者だったのではないでしょうか。
■ 想定外だった名張忍者の強さ
織田方にとって、
伊賀は簡単に制圧できると思っていたのでしょう。
しかし実際には、八千の兵が大敗しました。
この時点で、
👉 名張忍者の実力は信長の想定を大きく超えていた
と考えざるを得ません。
損害があまりに大きく、
この敗北は「小さな事件」として処理できなくなった。
そして、
信雄が責任を引き受ける形で、
「独断出兵」という物語が作られた可能性があります。
■ 織田信雄という人物を、私は再評価しています
一般的に、織田信雄は「冴えない人物」として認識されています。
しかし私は、それは違うと思っています。
戦国時代、最も危険な立場にいたのは誰か。
それは、天下人の息子たちです。
父が討たれれば真っ先に狙われる。
兄弟間でも権力争いが起きる。
家臣にも、外部勢力にも、常に命を狙われる立場。
そのような極限の状況の中で、
信雄は最後まで生き残りました。
👉 サバイバルの時代に、最も殺されやすい立場で生き残った
これは、決して「冴えない人物」の成せることではありません。
私は、信雄はこの事件をできるだけ矮小化するために、
意図的に「自分が独断でやった」という役割を引き受けたのではないかと考えています。
それ自体が、高度な判断だったのではないでしょうか。
本能寺の変での明智光秀と同じように、
「愚かに見える行動」の裏に、深い計算が隠れていることがある。
戦国を生き抜いた人物を、
表面だけで判断してはいけないと、私は思っています。
■ この敗北が次につながった
第一次天正伊賀の乱の敗北によって、
信長は名張忍者の存在を
本格的な脅威として認識した。
私はそう考えています。
そしてこの認識こそが、
後の第二次天正伊賀の乱へと直結していきます。
第一次は偶発的な衝突ではなく、
👉 大きな流れの中の”始まり”
だったのです。
■ 次回に向けて
次回は、いよいよ第二次天正伊賀の乱に入ります。
通説では「三万人が犠牲になった」とされるこの戦い。
しかし私は、この数字に強い違和感を覚えています。
伊賀に住む者として、
その「三万人」という数字が意味することを
正面から考えてみたいと思います。
どうぞお楽しみに。
