「敵は本能寺にあり」――
誰もが一度は耳にしたこの言葉。
しかしこの事件、一次史料を見てみると、
通説では説明のつかない記述が残されているようです。
■ 複数の史料が示す「喧嘩のような騒ぎ」
とある書籍が、一次史料から本能寺の変前後の詳細な状況を解き明かしていました。
斎藤忠氏の著書
『天正10年の史料だけが証す本能寺の変の真実』
の中で、興味深い史料の記述が紹介されています。
その記述とは――
本能寺の包囲において、
**「喧嘩のような騒ぎ」がしばらく続いた後に、
発砲を伴う襲撃が始まった**
というものです。
作者の方が、いろいろな一次史料を読み解いた上でそう結論づけています。
そしてこれを記録しているのは、一つの史料ではありません。
👉 『惟任退治記』――所司代村井貞勝の視点
👉 『1582年日本年報追加』――南蛮寺司祭の視点
👉 『日本史』――南蛮寺司祭の視点
👉 『信長公記』――信長周辺の視点
情報源がすべて異なる史料が、
揃って「喧嘩のような騒ぎ」と記している。
これは、この記述の信憑性を格段に高めるものです。
■ 「喧嘩のような騒ぎ」という表現がおかしい
その書籍でも指摘していますが、一般的に思われている本能寺の変とは少し違います。
明智光秀が数千の大軍を率いて急襲したのであれば、
目撃者は「軍勢が押し寄せた」
「兵が本能寺を取り囲んだ」と表現するはずです。
しかし実際の記述は「喧嘩のような騒ぎ」。
👉 **大軍による急襲と「喧嘩のような騒ぎ」は、まったく結びつかない**

■ 火の手が上がるまでの「空白の時間」
さらに不思議なのは、その後の展開です。
「喧嘩のような騒ぎ」がしばらく続いた後、
ようやく火の手が上がっています。
急襲であれば、
包囲と同時に火が上がるはずです。
しかし実際には、
👉 **騒ぎが続く時間があった**
👉 **その後に火の手が上がった**
この火の手の上がるまで、小一時間ほどあったそうです。なぜ、そのような時間差があったのか?
火の手が上がるまでの喧嘩のような騒ぎとは、一体何なのか?
■ 二つの疑問
ここから、二つの根本的な疑問が生まれます。
👉 **光秀は本能寺に何をしに来たのか**
👉 **火の手が上がるまで、何をしていたのか**
この疑問に向き合うと、
「明智光秀が大軍で急襲した」という通説では、
説明のつかないことが見えてきます。
■ 次回に向けて
次回は、この二つの疑問に向き合います。
信長の前日の行動、
そして光秀が本能寺に来た本当の理由。
史料の記述を丁寧に追うと、
通説とはまったく異なる本能寺の夜が浮かび上がってきます。
どうぞお楽しみに。

