前シリーズ「本能寺の変」では、
伊賀忍者の通信網と、本能寺の変との関係に触れました。
今回からは、その核心に迫るために欠かせない事件を取り上げます。
**天正伊賀の乱**です。
■ 伊賀に住んでいる人間も知らない事件
まず、正直に言います。
この事件、伊賀に住んでいる人間でも、ほとんど知りません。
全国的にはさらにマイナーで、歴史の教科書にもほぼ登場しません。
しかし内容を調べると、島原の乱に次ぐ三万人の犠牲者。
伊賀全土が火の海になった。
伊賀全体が壊滅した。
👉 **これほどの大事件が、なぜこれほど語られないのか**
この違和感こそが、このシリーズの出発点です。
■ 通説の天正伊賀の乱
まず、歴史書や解説で語られている通説を整理します。
天正伊賀の乱は、二度の伊賀攻めをまとめた呼び方です。
**【第一次伊賀攻め】天正7年(1579年)**
織田信長の次男・織田信雄が、
伊賀の丸山に密かに城を築こうとしました。
しかし伊賀側に気づかれ、破壊されます。
怒った信雄は父・信長に知らせず伊賀へ進軍。
しかし伊賀側の激しい抵抗に遭い、大敗して撤退します。
**【第二次伊賀攻め】天正9年(1581年)**
第一次の敗北を受け、信長は本格的な大軍を編成。
三方面から伊賀へ侵攻し、短期間で制圧したとされます。
伊賀は徹底的に破壊され、全域が火の海となり、
三万人が犠牲になったとも言われています。
これが、一般的に語られる天正伊賀の乱の姿です。
■ この通説、いつ書かれたのか
ここで一つ、重要な問いを立てます。
👉 **この通説の根拠は何か**
天正伊賀の乱を語る資料として中心的な存在が、
**「伊乱記」**という書物です。
しかしこの伊乱記、事件が起きた天正年間に書かれたものではありません。
**江戸時代に書かれた書物**です。
事件から数十年以上が経過したのちに記された記録が、
天正伊賀の乱の「通説」の大きな根拠になっているのです。
■ 一次史料「信長公記」は何を語っているか
では、事件と同時代に書かれた一次史料はどうでしょうか。
織田信長の行動を詳細に記録した**「信長公記」**があります。
ところがこの信長公記、
天正伊賀の乱についての記述が
👉 **驚くほど少ない**
のです。
三万人が犠牲になった大事件であれば、
信長の大きな功績として詳細に記録されるはずです。
しかし実際には、あっさりとした記述にとどまっています。
■ 「三万人犠牲」は本当か
通説では「三万人が犠牲になった」とされています。
しかし少し考えてみてください。
当時の伊賀の人口は、多く見積もっても十万人前後と考えられています。
つまり三万人とは、**人口の三割**に相当します。
それがわずか一か月ほどの間に失われたとすれば、
これは自然災害や戦争の中でも、
歴史的に見て極めて異例の規模です。
👉 そのような出来事が起きた地域には、必ず深い傷跡が残ります
供養の地、忌避された土地、語り継がれる記憶。
しかし伊賀に住んでいて、そのような話を聞いたことがありません。
■ 伊賀は本当に「狭い」のか
通説でもう一つ気になるのが、
「伊賀は狭い地域だった」という表現です。
天正伊賀の乱を解説しているものによると、ほとんどの場合、伊賀は小さく、狭い地域として語られています。
しかし実際の伊賀国は、現在の**伊賀市と名張市を合わせた地域**です。
その面積は約700㎢。
👉 **東京23区(約630㎢)より広い**
これを「狭い」と表現するのは、実際にこの地域を知らなければこそ、ではないでしょうか。
■ 次回に向けて
通説には、いくつもの「おかしな点」があります。
一次史料がほとんど語らない。
通説の根拠は後世に書かれた書物。
三万人犠牲という数字の不自然さ。
「狭い」という表現への違和感。
次回は、通説のもう一つの柱である
**「伊賀惣国一揆」**について考えます。
伊賀が「一枚岩で団結した武装組織だった」という前提、これもまた、実際の伊賀を知れば知るほど、疑問が積み重なっていきます。
どうぞお楽しみに。

