前回、第一次天正伊賀の乱は 「名張対織田」という構図だったという考察をしました。
そして信長は、この敗北によって 名張忍者を本格的な脅威として認識した。
その結果として起きたのが、第二次天正伊賀の乱です。
今回は、この第二次について、 特に「犠牲者数」という点から考えてみます。
■ 「三万人犠牲」という通説
第二次天正伊賀の乱について調べると、
多くの資料やウィキペディアなどで、
👉 **「死者数 三万人」**
と記されています。
もしこれが事実であれば、
日本の合戦史においても極めて異例の規模です。
島原の乱に次ぐ、国内でも屈指の犠牲者数ということになります。
■ 「三万人犠牲」という通説
第二次天正伊賀の乱について調べると、 多くの資料やウィキペディアなどで、
👉 「死者数 三万人」
と記されています。
もしこれが事実であれば、 日本の合戦史においても極めて異例の規模です。
島原の乱に次ぐ、国内でも屈指の犠牲者数ということになります。
■ あまりにも不自然な位置づけ
ここで、強い違和感を覚えます。
三万人が亡くなったとすれば、 それは信長による比叡山焼き討ちや、 長島一向一揆の虐殺をはるかに上回る規模です。
にもかかわらず、第二次天正伊賀の乱は 一般的には「マイナーな戦い」として扱われています。
伊賀に住んでいる人でも、 ほとんどの人は天正伊賀の乱を知りません。
👉 これほどの大事件が、なぜこれほど語られないのか
この落差は、どう考えても不自然です。
■1ヶ月で人口の三割が死亡?
仮に当時の伊賀の人口を十万人前後と仮定すると、 三万人という数字は人口の三割に相当します。
それがわずか一か月ほどの間に失われた。
これは自然災害や原爆に匹敵するほどの被害規模です。
そのような出来事が起きた地域には、 必ず深い傷跡が残るはずです。
👉 大量死があった場所には、必ず供養地や忌避された土地が残る
しかし伊賀に住んでいて、 そのような話を聞いたことがありません。
また、その規模の犠牲者数を出すためには、 伊賀各地に複数の虐殺地がなければ数字に到達しません。
しかし、なぜ人々はその虐殺地に集まったのか。 普通であれば、逃げるはずです。
疑問しか出てきません。
■ 信長公記は何を語っているか
ここで、一次史料である信長公記に戻ってみます。
信長公記には、比叡山焼き討ちや長島一向一揆の虐殺について、 生々しい描写が残されています。
信長にとって、これらは誇るべき「功績」として 詳細に記録されているのです。
しかし天正伊賀の乱については、 👉 そこまでの描写がない
三万人が犠牲になったほどの大虐殺であれば、 信長の功績として詳細に記録されるはずです。 しかし実際には、あっさりとした記述にとどまっています。
一次史料の「温度差」は、 三万人犠牲説への大きな疑問符です。
■ 長島は今、一大レジャーランドになっている
長島一向一揆の虐殺地として知られる長島は、 現在、長島スパーランドをはじめとする 一大レジャーランドとして知られています。
大量の犠牲者が出た土地は、 長い年月をかけて「忌避された土地」となり、 やがて別の目的で使われるようになった。
これは、大規模な虐殺があった地域の 一つの典型的な姿だと思います。
一方、伊賀はどうか。
忍者博物館があり、忍者文化が観光資源として生き続け、 伊賀の人々はその歴史を誇りとして語っています。
👉 壊滅した文化が、これほど鮮やかに残るものでしょうか
長島と伊賀。この対比こそが、 三万人犠牲説の不自然さを最もわかりやすく示していると思います。
■ 私の考え
これらを総合すると、
織田軍が伊賀へ大軍で侵攻したこと自体は事実でも、
👉 「三万人が犠牲になった殲滅戦」という描写には、大きな誇張や脚色が含まれている
のではないかと考えています。
そしてその誇張は、誰かの意図によって作られた可能性があります。
第二次天正伊賀の乱は、実際には大規模な軍事行動ではあったものの、 その実像はまったく異なるものだったのではないでしょうか。
■ 次回に向けて
では、第二次天正伊賀の乱で実際に何が起きたのか。
織田軍はどのルートで伊賀に侵入し、 どこへ向かったのか。
そのルートを丁寧に追うと、 この戦いの「本当の狙い」が見えてきます。
どうぞお楽しみに。
