前回、三万人犠牲説への疑問を整理しました。
では第二次天正伊賀の乱で、
実際に何が起きたのか。
今回は織田軍の侵入ルートに注目します。
ここに、この戦いの「本当の狙い」が見えてきます。
■ 伊賀は本来、天然の要塞
伊賀は四方を山に囲まれた盆地です。
地形だけを見れば、極めて防御に優れた地域であり、
本来は外部勢力が簡単に入り込める場所ではありません。
実際、第一次天正伊賀の乱では、
織田軍は伊賀に入る前の段階で撃退されています。
伊賀の地形と防御力が、
十分に機能していたことを示しています。
■ 第二次では、なぜ侵入できたのか
ところが第二次天正伊賀の乱では、
織田軍は比較的あっさりと伊賀国内へ侵入しています。
単なる兵力差だけでは説明がつきません。
信長公記を見ると、
第二次天正伊賀の乱における主な侵入ルートは、
👉 甲賀
👉 信楽
👉 伊賀北部から
であったことがわかります。
■ 北部伊賀は織田軍を「引き入れた」
この侵入ルートを見て、私はこう考えています。
👉 北部伊賀は、織田軍を引き入れた
甲賀・信楽・北部伊賀は、
これまでの考察で見てきたように、
南部(名張)とは異なる方向を向いていた勢力です。
第一次での大敗を経て、
北部伊賀は織田と手を結ぶ判断をした。
そしてその協力によって、
織田の大軍は天然の要塞・伊賀へ
あっさりと侵入することができた。
■ 織田軍の本当の狙いはどこだったのか
ではその大軍は、伊賀のどこへ向かったのか。
これまでの考察を踏まえると、
織田軍の主な目標は伊賀全体ではなく「名張」だったと考えています。
名張を攻略するには、
伊賀市側から複数のルートで同時に攻め込むのが最も効果的です。
第二次天正伊賀の乱は、
まさにそのような作戦だったのではないでしょうか。

■ 最終決戦地は柏原城
多くの研究者が指摘していることから、
最終決戦地は伊賀最南部、
赤目のすぐ近くにある柏原城であることは間違いないでしょう。
これまでの考察を踏まえると、
伊賀国内で大規模な戦闘はほとんど起こらず、
織田の大軍は比較的スムーズに柏原城へ集結した。
私はその可能性が高いと見ています。
■ 信長公記に「柏原城」が登場しない不思議
ここで、非常に奇妙な事実があります。
信長公記には、「柏原城」という名前が登場しないのです。
最終決戦地とされる場所が、
一次史料で明確に語られていない。
この違和感は、
第二次天正伊賀の乱を理解するうえで
極めて重要なポイントです。
👉 なぜ信長公記は柏原城を語らないのか
👉 そこで実際に何が起きたのか
次回は、この「記録の空白」に迫ります。
■ 次回に向けて
次回は、最終決戦地・柏原城の攻防について考えます。
織田の大軍が名張忍者と対峙したとき、
何が起きたのか。
そして信長公記がなぜ沈黙しているのか。
その答えが、天正伊賀の乱の実像を
もっとも鮮明に照らし出すことになります。
どうぞお楽しみに。
