前回、伊賀惣国一揆は「北部限定の同盟」だったという考察をしました。
そうなると、次に重要になるのが、
北部とは別の動きをしていた名張の勢力です。
■ 伊賀には600以上の城がある
伊賀国内には、城・砦跡が600ヶ所以上も存在します。
これは他の地域と比べても、異常な多さです。
「伊賀惣国一揆でまとまっていた」というイメージからすれば、
外敵に備えた砦がこれほど必要だったのか、という疑問が生まれます。
私はこの数字を、こう読んでいます。
👉 伊賀の中に複数の勢力が存在し、内部で常に緊張があった証拠
600の砦は外敵に備えるためだけでなく、
内部の緊張関係を反映したものだったのではないでしょうか。
■ 赤目は”忍者の聖地”
以前、赤目を訪れました。
赤目の滝周辺は忍者色が非常に強く、
宿泊した旅館には百地三太夫の鎧が飾られていました。
「赤目=百地の本拠地」という印象を、まさに体感しました。
近くには百地の城である竜口城もあります。
■ 喰代という「天然の要塞」
大山田から少し南、名張方面へ進んだあたりに
喰代(ほうじろ)という地域があります。
ここは限られた道しかなく、
まさに天然の要塞のような地形です。
そしてこの喰代にも、百地砦が存在します。

■ 実際に訪れてわかったこと
私は実際に喰代の百地砦を訪れました。
現在も寺が建っており、砦跡はその裏側にあります。
寺の正面からはまったくわかりません。
しかし砦跡からは、寺の様子がよく見える位置になっています。
入口は昼間でも薄暗く、
“百地”という名にふさわしい独特の雰囲気がありました。
この構造を目の当たりにしたとき、
忍者の恐ろしさを垣間見た気がしました。
👉 外からは見えない。しかし中からはすべてが見える。
■ 名張の勢力が「喰代」に砦を置いた意味
赤目に本拠地を持つ百地勢が、
なぜ喰代のような場所にも砦を構えたのか。
喰代は伊賀全体を睨みを効かせるような位置にあり、
伊賀のどこにでも素早く駆けつけられる立地です。
そこに百地の砦が置かれている。
これはつまり、
👉 名張の勢力が当時、伊賀全体に対して相当な影響力を持っていた
ということを示していると考えています。
■ 北部伊賀はどう感じていたのか
南(名張)の勢力が、
伊賀の「喉元」のような場所に砦を築いている。
当時、北部伊賀の勢力は、これをどう受け止めていたのでしょうか。
黙って指を咥えていただけとは思えません。
それを象徴するのが、
伊賀内部に600以上もの砦が点在しているという事実です。
■ 教科書に出ない、伊賀内部のドラマ
伊賀は「一枚岩」として語られることが多い。
しかし実際には、
👉 伊賀市側と名張市側を中心に、複数の勢力がせめぎ合う地域
だったと考える方が自然です。
この内部の緊張関係こそが、
天正伊賀の乱の実像を読み解く鍵になります。
■ 次回に向けて
名張がなぜこれほどの存在感を持っていたのか。
その理由を探るには、
名張という地域が持つ地政学的な意味を理解する必要があります。
次回は、名張と南朝・吉野との深い関係について考えます。
ここから、天正伊賀の乱の背景にある、
もっと大きな歴史の流れが見えてきます。
どうぞお楽しみに。
