天正伊賀の乱シリーズ、最終回です。
ここまで11回にわたって考察を重ねてきました。 まず、このシリーズで見えてきたことを整理します。
■ このシリーズで明らかになったこと
👉 伊賀惣国一揆は「一枚岩」ではなく、北部と南部(名張)に分かれていた 👉 名張は南朝・吉野・北畠家と深く結びついた要衝だった 👉 北畠粛清と第一次天正伊賀の乱は一本の線でつながっている 👉 第一次は「伊賀対織田」ではなく「名張対織田」だった 👉 信雄の「独断出兵」という物語には無理がある 👉 三万人犠牲説は、信長公記の記述と大きく矛盾する 👉 北部伊賀が織田軍を引き入れ、狙いは名張だった 👉 信長は敵地に踏み込まず、北部伊賀の本拠地で講和を結んだ
これらを総合すると、一つのことが見えてきます。
👉 天正伊賀の乱において、伊賀は織田軍に敗北していない
少なくとも、 「伊賀が徹底的に殲滅され、その恨みで本能寺の変が起きた」 という単純な因果関係は成り立ちません。
■ では、本能寺の変の動機は何だったのか
伊賀が敗北していないとすれば、 本能寺の変の動機は「復讐」ではありません。
このシリーズを掘り下げていく中で、 むしろ次のような疑問が強くなってきました。
👉 なぜ信長は、北畠家をあれほど徹底的に粛清したのか 👉 なぜ、無視することもできそうな伊賀を、わざわざ大軍で攻めたのか 👉 伊賀惣国一揆の掟の中に「三好家に味方するな」という条項が、なぜ存在するのか
これらは個別に見れば、別々の出来事に見えます。
しかし調べていくうちに、 これらが一本の糸で繋がる感覚を持つようになりました。
■ 信長の「本当の敵」
信長が生涯をかけて戦い続けた相手は、 武田でも上杉でもありませんでした。
表には見えない、しかし確実に存在する、 👉 人と情報が流れる「道」
その道こそが、信長にとって最大の脅威だったのではないか。
私はそう考えています。
■ 次のシリーズへ
次回からは、新シリーズを始めます。
伊勢から名張、宇陀、吉野を経て四国へ至る。 表の街道ではなく、記録にも残りにくい、 しかし確実に使われていたはずの道。
三好家の台頭、信長包囲網の連携、 武田信玄の西上作戦、そして本能寺の変。
これらすべてを一本の線で結ぶ、 その道の名を――
👉 「影街道」
と呼ぶことにしました。
次のシリーズでは、この影街道の全貌に迫ります。
どうぞお楽しみに。

